2008年11月10日月曜日

 道也《どうや》先生長い顔を長くして煤竹《すすだけ》で囲った丸火桶《まるひおけ》を擁《よう》している。外を木枯《こがらし》が吹いて行く。
「あなた」と次の間《ま》から妻君が出てくる。紬《つむぎ》の羽織の襟《えり》が折れていない。
「何だ」とこっちを向く。机の前におりながら、終日《しゅうじつ》木枯《こがらし》に吹《ふ》き曝《さら》されたかのごとくに見える。
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」
「もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這入《はい》る都合だとおっしゃったじゃありませんか」
「うん言った。言ったには相違ないが、売れない」
「困るじゃござんせんか」
「困るよ。御前《おまえ》よりおれの方が困る。困るから今考えてるんだ」
「だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――」
「三百枚どころか四百三十五頁ある」
「それで、どうして売れないんでしょう」
「やっぱり不景気なんだろうよ」
「だろうよじゃ困りますわ。どうか出来ないでしょうか」
「南溟堂《なんめいどう》へ持って行った時には、有名な人の御序文があればと云うから、それから足立《あだち》なら大学教授だから、よかろうと思って、足立にたのんだのさ。本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ」
「借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――」と妻君頭のなかへ人指《ひとさし》ゆびを入れてぐいぐい掻《か》く。束髪《そくはつ》が揺れる。道也はその頭を見ている。
「近頃の本は借金同様だ。信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない」
「本当につまらないわね。あんなに夜遅くまでかかって」
「そんな事は本屋の知らん事だ」
「本屋は知らないでしょうさ。しかしあなたは御存じでしょう」
「ハハハハ当人は知ってるよ。御前も知ってるだろう」
「知ってるから云うのでさあね」
「言ってくれても信用がないんだから仕方がない」
「それでどうなさるの」
「だから足立の所へ持って行ったんだよ」
「足立さんが書いてやるとおっしゃって」
「うん、書くような事を云うから置いて来たら、またあとから書けないって断わって来た」
「なぜでしょう」
「なぜだか知らない。厭《いや》なのだろう」
「それであなたはそのままにして御置きになるんですか」
「うん、書かんのを無理に頼む必要はないさ」
「でもそれじゃ、うちの方が困りますわ。この間|御兄《おあにい》さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから」
「おれもその方を埋《う》めるつもりでいたんだが――売れないから仕方がない」
「馬鹿馬鹿しいのね。何のために骨を折ったんだか、分りゃしない」
 道也先生は火桶《ひおけ》のなかの炭団《たどん》を火箸《ひばし》の先で突《つっ》つきながら「御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ」と云った。妻君はだまってしまう。ひゅうひゅうと木枯《こがらし》が吹く。玄関の障子《しょうじ》の破れが紙鳶《たこ》のうなりのように鳴る。
「あなた、いつまでこうしていらっしゃるの」と細君は術《じゅつ》なげに聞いた。
「いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか」
「二言目《ふたことめ》には食えれば食えればとおっしゃるが、今こそ、どうにかこうにかして行きますけれども、このぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ」
「そんなに心配するのかい」
 細君はむっとした様子である。
「だって、あなたも、あんまり無考《むかんがえ》じゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断《ことわ》っておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑固《がんこ》を御張りになるんですもの」
「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「だって食べられないんですもの」
「たべられるよ」
「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性《しょう》に合わないんですよ」
「よくそんな事がわかるな」
 細君は俯向《うつむ》いて、袂《たもと》から鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。
「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄《おあにい》さんだって、そうおっしゃるじゃありませんか」
「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢《ひばち》の灰を丁寧に掻《か》きならす。中から二寸|釘《くぎ》が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛《ほう》り出した。
 庭には何にもない。芭蕉《ばしょう》がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をしている。地面は皮が剥《む》けて、蓆《むしろ》を捲《ま》きかけたように反《そ》っくり返っている。道也先生は庭の面《おもて》を眺《なが》めながら
「だいぶ吹いてるな」と独語《ひとりごと》のように云った。
「もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうでしょう」
「厭《いや》なものに頼んだって仕方がないさ」
「あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪《えら》い方《かた》になれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……」
「あんな豪い方って――足立がかい」
「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向《むこう》はともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう」
「そうか、それじゃおおせに従って、もう一返《いっぺん》頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、ちょっと社まで行って、校正をしてこなければならない。袴《はかま》を出してくれ」
 道也先生は例のごとく茶の千筋《せんすじ》の嘉平治《かへいじ》を木枯《こがらし》にぺらつかすべく一着して飄然《ひょうぜん》と出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。
 思う事積んでは崩《くず》す炭火《すみび》かなと云う句があるが、細君は恐らく知るまい。細君は道也先生の丸火桶《まるひおけ》の前へ来て、火桶の中を、丸るく掻きならしている。丸い火桶だから丸く掻きならす。角な火桶なら角に掻きならすだろう。女は与えられたものを正しいものと考える。そのなかで差し当りのないように暮らすのを至善《しぜん》と心得ている。女は六角の火桶を与えられても、八角の火鉢を与えられても、六角にまた八角に灰を掻きならす。それより以上の見識は持たぬ。
 立ってもおらぬ、坐ってもおらぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝頭《ひざがしら》は火桶の縁《ふち》につきつけられている。坐《す》わるには所を得ない、立っては考えられない。細君の姿勢は中途半把《ちゅうとはんぱ》で、細君の心も中途半把である。
 考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によすはずであった。親でさえ、あれほどに親切を尽してくれたのだから、二世《にせ》の契《ちぎ》りと掟《おきて》にさえ出ている夫は、二重にも三重にも可愛がってくれるだろう、また可愛がって下さるよと受合われて、住み馴れた家《いえ》を今日限りと出た。今日限りと出た家《うち》へ二度とは帰られない。帰ろうと思ってもおとっさんもお母《っか》さんも亡くなってしまった。可愛がられる目的《あて》ははずれて、可愛がってくれる人はもうこの世にいない。
 細君は赤い炭団《たどん》の、灰の皮を剥《む》いて、火箸《ひばし》の先で突《つ》つき始めた。炭火なら崩《くず》しても積む事が出来る。突《つっ》ついた炭団は壊《こわ》れたぎり、丸い元の姿には帰らぬ。細君はこの理を心得ているだろうか。しきりに突ついている。
 今から考えて見ると嫁に来た時の覚悟が間違っている。自分が嫁に来たのは自分のために来たのである。夫のためと云う考はすこしも持たなかった。吾《わ》が身が幸福になりたいばかりに祝言《しゅうげん》の盃《さかずき》もした。父、母もそのつもりで高砂《たかさご》を聴いていたに違ない。思う事はみんなはずれた。この頃の模様を父、母に話したら定めし道也はけしからぬと怒《おこ》るであろう。自分も腹の中では怒っている。
 道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫はけっして聞き入れた事がない。家庭の生涯《しょうがい》はむしろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治《おさ》まらない。世間の夫は皆道也のようなものかしらん。みんな道也のようだとすれば、この先結婚をする女はだんだん減るだろう。減らないところで見るとほかの旦那様は旦那様らしくしているに違ない。広い世界に自分一人がこんな思《おもい》をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳《わけ》には行かぬ。しかし連れ添う夫がこんなでは、臨終まで本当の妻と云う心持ちが起らぬ。これはどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きている甲斐《かい》がない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくっている。風が枯芭蕉《かればしょう》を吹き倒すほど鳴る。
 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
 道也の兄は会社の役員である。その会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関へ脱いで座敷へ這入《はい》ってくる。
「だいぶ吹きますね」と薄い更紗《さらさ》の上へ坐って抜け上がった額《ひたい》を逆《さか》に撫《な》でる。
「御寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「今御帰り掛けですか」
「いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
 兄は糸織の小袖《こそで》に鉄御納戸《てつおなんど》の博多《はかた》の羽織を着ている。
「今日は――留守ですか」
「はあ、たった今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御緩《ごゆっ》くり」と例の火鉢を出す。
「もう御構《おかまい》なさるな。――どうもなかなか寒い」と手を翳《かざ》す。
「だんだん押し詰りましてさぞ御忙《おいそ》がしゅう、いらっしゃいましょう」
「へ、ありがとう。毎年暮になると大頭痛、ハハハハ」と笑った。世の中の人はおかしい時ばかり笑うものではない。
「でも御忙がしいのは結構で……」
「え、まあ、どうか、こうかやってるんです。――時に道也はやはり不相変《あいかわらず》ですか」
「ありがとう。この方はただ忙がしいばかりで……」
「結構でないかね。ハハハハ。どうも困った男ですねえ、御政《おまさ》さん。あれほど訳《わけ》がわからないとまでは思わなかったが」
「どうも御心配ばかり懸《か》けまして、私もいろいろ申しますが、女の云う事だと思ってちっとも取り上げませんので、まことに困り切ります」
「そうでしょう、私《わたし》の云う事だって聞かないんだから。――わたしも傍《そば》にいるとつい気になるから、ついとやかく云いたくなってね」
「ごもっともでございますとも。みんな当人のためにおっしゃって下さる事ですから……」
「田舎《いなか》にいりゃ、それまでですが、こっちにこうしていると、当人の気にいっても、いらなくっても、やっぱり兄の義務でね。つい云いたくなるんです。――するとちっとも寄りつかない。全く変人だね。おとなしくして教師をしていりゃそれまでの事を、どこへ行っても衝突して……」
「あれが全く心配で、私もあのためには、どんなに苦労したか分りません」
「そうでしょうとも。わたしも、そりゃよく御察し申しているんです」
「ありがとうございます。いろいろ御厄介《ごやっかい》にばかりなりまして」
「東京へ来てからでも、こんなくだらん事をしないでも、どうにでも成るんでさあ。それをせっかく云ってやると、まるで取り合わない。取り合わないでもいいから、自分だけ立派にやって行けばいい」
「それを私も申すのでござんすけれども」
「いざとなると、やっぱりどうかしてくれと云うんでしょう」
「まことに御気の毒さまで……」
「いえ、あなたに何も云うつもりはない。当人がさ。まるで無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって筆耕《ひっこう》の真似《まね》をしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか」
「自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから」
「ハハハハえらいつもりだって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃしようがない」
「近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたってどこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥《ひんせき》される。つまり自分の錆《さび》になるばかりでさあ」
「少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども」
「しまいにゃ人にまで迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私《わたし》を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗《むやみ》に不穏な言論をして富豪などを攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、さんざん叱られたんです」
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、それぞれ探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣《きづかい》はないが、課長からそう云われて見ると、放《ほう》って置けませんからね」
「ごもっともで」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」
「生憎《あいにく》出まして」
「なに当人はいない方がかえっていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中でだんだん考えて来たんだが、どうしたものでしょう」
「あなたから、とくと異見《いけん》でもしていただいて、また教師にでも奉職したら、どんなものでございましょう」
「そうなればいいですとも。あなたも仕合《しあわ》せだし、わたしも安心だ。――しかし異見《いけん》でおいそれと、云う通りになる男じゃありませんよ」
「そうでござんすね。あの様子じゃ、とても駄目でございましょうか」
「わたしの鑑定じゃ、とうてい駄目だ。――それでここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から雑誌や新聞をやめて、教師になりたいと云う気を起させるようにするのは」
「そうなれば私は実にありがたいのですが、どうしたら、そう旨《うま》い具合に参りましょう」
「あのこの間中《あいだじゅう》当人がしきりに書いていた本はどうなりました」
「まだそのままになっております」
「まだ売れないですか」
「売れるどころじゃございません。どの本屋もみんな断わりますそうで」
「そう。それが売れなけりゃかえって結構だ」
「え?」
「売れない方がいいんですよ。――で、せんだってわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう」
「たしかこの月の十五日だと思います」
「今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四日《よっか》ですね」
「ええ」
「あの方を手厳《てきび》しく催促させるのです。――実はあなただから、今打ち明けて御話しするが、あれは、わたしが印を押している体《たい》にはなっているが本当はわたしが融通したのです。――そうしないと当人が安心していけないから。――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工面《くめん》の出来る所がありますか」
「いいえ、ちっともございません」
「じゃ大丈夫、その方でだんだん責めて行く。――いえ、わたしは黙って見ている。証文の上の貸手が催促に来るのです。あなたも済《すま》していなくっちゃいけません。――何を云っても冷淡に済ましていなくっちゃいけません。けっしてこちらから、一言《ひとこと》も云わないのです。――それで当人いくら頑固《がんこ》だって苦しいから、また、わたしの方へ頭を下げて来る。いえ来なけりゃならないです。その、頭を下げて来た時に、取って抑《おさ》えるのです。いいですか。そうたよって来るなら、おれの云う事を聞くがいい。聞かなければおれは構わん。と云いやあ、向《むこう》でも否《いや》とは云われんです。そこでわたしが、御政《おまさ》さんだって、あんなに苦労してやっている。雑誌なんかで法螺《ほら》ばかり吹き立てていたって始まらない、これから性根《しょうね》を入《い》れかえて、もっと着実な世間に害のないような職業をやれ、教師になる気なら心当りを奔走《ほんそう》してやろう、と持《も》ち懸《か》けるのですね。――そうすればきっと我々の思わく通りになると思うが、どうでしょう」
「そうなれば私はどんなに安心が出来るか知れません」
「やって見ましょうか」
「何分宜《なにぶんよろ》しく願います」
「じゃ、それはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清輝館《せいきかん》の前に、大きな広告があって、わたしは吃驚《びっくり》させられましたよ」
「何の広告でござんす」
「演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ」
「へえ、ちっとも存じませんでした」
「それで題が大きいから面白い、現代の青年に告ぐと云うんです。まあ何の事やら、あんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。しかし剣呑《けんのん》ですよ。やけになって何を云うか分らないから。わたしも課長から忠告された矢先だから、すぐ社へ電話をかけて置いたから、まあ好《い》いですが、何なら、やらせたくないものですね」
「何の演説をやるつもりでござんしょう。そんな事をやるとまた人様《ひとさま》に御迷惑がかかりましょうね」
「どうせまた過激な事でも云うのですよ。無事に済めばいいが、つまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。――どうしてもやめさせなくっちゃ、いけないね」
「どうしたらやめるでござんしょう」
「これもよせったって、頑固《がんこ》だから、よす気遣《きづかい》はない。やっぱり欺《だま》すより仕方がないでしょう」
「どうして欺したらいいでしょう」
「そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢《あ》いたいからって使をよこして見ましょうか」
「そうでござんすね。それで、あなたの方へ参るようだと宜《よろ》しゅうございますが……」
「聞かないかも知れませんね。聞かなければそれまでさ」
 初冬《はつふゆ》の日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。

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