2008年11月10日月曜日

 檜《ひのき》の扉《とびら》に銀のような瓦《かわら》を載《の》せた門を這入《はい》ると、御影《みかげ》の敷石に水を打って、斜《なな》めに十歩ばかり歩《あゆ》ませる。敷石の尽きた所に擦《す》り硝子《ガラス》の開き戸が左右から寂然《じゃくねん》と鎖《とざ》されて、秋の更《ふ》くるに任すがごとく邸内は物静かである。
 磨《みが》き上げた、柾《まさ》の柱に象牙《ぞうげ》の臍《へそ》をちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃと鍵《かぎ》をひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周囲《まわり》一|尺余《しゃくよ》の朱泥《しゅでい》まがいの鉢《はち》があって、鉢のなかには棕梠竹《しゅろちく》が二三本|靡《なび》くべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金屏《きんびょう》に、三条《さんじょう》の小鍛冶《こかじ》が、異形《いぎょう》のものを相槌《あいづち》に、霊夢《れいむ》に叶《かな》う、御門《みかど》の太刀《たち》を丁《ちょう》と打ち、丁と打っている。
 取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也《しらいどうや》と云《い》う名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首を傾《かたむ》けてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかも計《はか》られん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生涯《しょうがい》それぎりになるかも知れない。今まで訪問に出懸《でか》けて、年寄か、小供か、跛《ちんば》か、眼っかちか、要領を得る前に門前から追い還《かえ》された事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろと逼《せま》らるる事は賢者《けんじゃ》が愚物《ぐぶつ》に対して払う租税である。
「大学を御卒業になった方《ほう》の……」とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀《おじぎ》をして立って行く。白足袋《しろたび》の裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳抜《いぬ》いた、かな灯籠《どうろう》がぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたら灯《ひ》がつけられるのかと、先生は仰向《あおむ》いて長い鎖《くさ》りを眺《なが》めながら考えた。
 下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹《くぼ》んで、前緒《まえお》のゆるんだ下駄を立派な沓脱《くつぬぎ》へ残して、ひょろ長い糸瓜《へちま》のようなからだを下女の後ろから運んで行く。
 応接間は西洋式に出来ている。丸い卓《テーブル》には、薔薇《ばら》の花を模様に崩《くず》した五六輪を、淡い色で織り出したテーブル掛《かけ》を、雑作《ぞうさ》もなく引き被《かぶ》せて、末は同じ色合の絨毯《じゅうたん》と、続《つ》づくがごとく、切れたるがごとく、波を描《えが》いて床《ゆか》の上に落ちている。暖炉《だんろ》は塞《ふさ》いだままの一尺前に、二枚折《にまいおり》の小屏風《こびょうぶ》を穴隠しに立ててある。窓掛は緞子《どんす》の海老茶色《えびちゃいろ》だから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼には入《い》らない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇麗《きれい》な室《へや》へ這入《はい》った事はないのである。
 先生は仰いで壁間《へきかん》の額を見た。京の舞子が友禅《ゆうぜん》の振袖《ふりそで》に鼓《つづみ》を調べている。今打って、鼓から、白い指が弾《はじ》き返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画《え》を掛けたものだと思ったばかりである。向《むこう》の隅《すみ》にヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間《すきま》から洩《も》れて射《さ》す光線に、金文字の甲羅《こうら》を干《ほ》している。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫《ごう》も辟易《へきえき》しなかった。
 ところへ中野君が出てくる。紬《つむぎ》の綿入に縮緬《ちりめん》の兵子帯《へこおび》をぐるぐる巻きつけて、金縁《きんぶち》の眼鏡越《めがねごし》に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
 道也先生は、あやしげな、銘仙《めいせん》の上を蔽《おお》うに黒木綿《くろもめん》の紋付をもってして、嘉平次平《かへいじひら》の下へ両手を入れたまま、
「どうも御邪魔をします」と挨拶《あいさつ》をする。泰然《たいぜん》たるものだ。
 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」と大《おおい》なる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世馴《よな》れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあては外《はず》れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可哀想《かわいそう》だと云う念頭に尾羽《おは》うち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞き糺《ただ》したくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには「あなたが白井道也とおっしゃるんで」と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる「はい」のために無駄死《むだじに》をしてしまった。初心《しょしん》なる文学士は二の句をつぐ元気も作略《さりゃく》もないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、向《むこう》が泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角《いっかく》を針で突き透《とお》しても思《おもい》を遂《と》げる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
「実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。
「はあ、何でも出来ます事なら」と中野君は快く承知した。
「実は今度|江湖雑誌《こうこざっし》で現代青年の煩悶《はんもん》に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支《おさしつかえ》がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
 道也先生は静かに懐《ふところ》から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強《し》いて話させたい景色《けしき》も見えない。彼はかかる愚《ぐ》な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀《かが》やく眼を挙《あ》げて、道也先生を見たが、先生は宵越《よいごし》の麦酒《ビール》のごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載《の》せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏《まとま》った話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇《ちゅうちょ》している。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主《みっかぼうず》のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑《すべ》らす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ず陥《おちい》る、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
 鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
 道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶《はんもん》は大《おおい》なる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである」
 道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白《あおじろ》い相貌《そうぼう》の一微塵《いちみじん》だも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。
「我々が生涯《しょうがい》を通じて受ける煩悶《はんもん》のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度《ひとた》びこの煩悶の炎火《えんか》のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭《めいりょう》になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯|悟《さと》る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦《くるし》みを甞《な》めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人《ごじん》をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱《げだつ》せしむるのである。……」
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙《あ》げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承《うけたまわ》るのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削除《さくじょ》すると失礼になりますから」
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐《ふところ》へ入れた。
 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言《いちごん》にして云えば中野君はひまなのである。
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子《いす》を離れて、一歩テーブルを退《しりぞ》いた。いかにひまな中野君も「それでは」とついに降参して御辞儀《おじぎ》をする。玄関まで送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作《たかやなぎしゅうさく》と云う男を御存じじゃないですか」と念晴《ねんば》らしのため聞いて見る。
「高柳? どうも知らんようです」と沓脱《くつぬぎ》から片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへ捩《ね》じ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋《きし》る音がして梶棒《かじぼう》は硝子《ガラス》の扉《とびら》の前にとまった。道也先生が扉を開く途端《とたん》に車上の人はひらり厚い雪駄《せった》を御影《みかげ》の上に落した。五色の雲がわが眼を掠《かす》めて過ぎた心持ちで往来へ出る。
 時計はもう四時過ぎである。深い碧《みど》りの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶《とび》が一羽舞っている。雁《かり》はまだ渡って来ぬ。向《むこう》から袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取った小供が唱歌を謡《うた》いながら愉快そうにあるいて来た。肩に担《かつ》いだ笹《ささ》の枝には草の穂で作った梟《ふくろう》が踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑子《ぞうし》ヶ谷《や》へでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋《くだものや》の奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
 薬王寺前《やくおうじまえ》に来たのは、帽子の庇《ひさし》の下から往来《ゆきき》の人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三|所《じょ》と彫《ほ》ってある石標《せきひょう》を右に見て、紺屋《こんや》の横町を半丁ほど西へ這入《はい》るとわが家《や》の門口《かどぐち》へ出る、家《いえ》のなかは暗い。
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行きました」と細君はまた台所へ引き返す。
 道也先生は正面の床《とこ》の片隅に寄せてあった、洋灯《ランプ》を取って、椽側《えんがわ》へ出て、手ずから掃除《そうじ》を始めた。何か原稿用紙のようなもので、油壺《あぶらつぼ》を拭《ふ》き、ほやを拭き、最後に心《しん》の黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へ棄《す》てた。庭は暗くなって様子が頓《とん》とわからない。
 机の前へ坐った先生は燐寸《マッチ》を擦《す》って、しゅっと云う間《ま》に火をランプに移した。室《へや》はたちまち明《あきら》かになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言訳《いいわけ》ばかりで、現《げん》に幅《ふく》も何も懸《かか》っておらん。その代り累々《るいるい》と書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白木《しらき》の三宝《さんぽう》を大きくしたくらいな単簡《たんかん》なもので、インキ壺《つぼ》と粗末な筆硯《ひっけん》のほかには何物をも載《の》せておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれに耽《ふけ》る余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温気《おんき》なき陋室《ろうしつ》に、晏如《あんじょ》として筆硯を呵《か》するの勇気あるは、外部より見て争うべからざる事実である。ことによると先生は装飾以外のあるものを目的にして、生活しているのかも知れない。ただこの争うべからざる事実を確めれば、確かめるほど細君は不愉快である。女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視して憚《はば》からぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。否《いな》、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己を目《もく》してくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世を観《かん》ずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏綿《てんめん》する事物や人間がこの装飾用の目的に叶《かな》わぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。道也の細君がここまで進歩しているかは疑問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息《せいそく》する結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
 道也先生はやがて懐《ふところ》から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴《はかま》を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一《なかのきいち》の恋愛論を筆記している。恋とこの室《へや》、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床《とこ》の後《うし》ろで※[#「虫+車」、第3水準1-91-55]《こおろぎ》が鳴いている。
 細君が襖《ふすま》をすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
 下女は帰ったようである。煮豆《にまめ》が切れたから、てっか味噌《みそ》を買って来たと云っている。豆腐《とうふ》が五厘高くなったと云っている。裏の専念寺で夕《ゆうべ》の御務《おつと》めをかあんかあんやっている。
 細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
 道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認《したた》めている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
 道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱《お》いて、傍《そば》へ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一|頁《ページ》」と独語した。著述でもしていると見える。
 立って次の間へ這入《はい》る。小さな長火鉢《ながひばち》に平鍋《ひらなべ》がかかって、白い豆腐が煙りを吐《は》いて、ぷるぷる顫《ふる》えている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、膳《ぜん》にして重箱《じゅうばこ》をかねたるごとき四角なものの前へ坐って箸《はし》を執《と》る。
「あら、まだ袴《はかま》を御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
「忙《いそ》がしいものだから、つい忘れた」
「求めて、忙がしい思《おもい》をしていらっしゃるのだから、……」と云ったぎり、細君は、湯豆腐の鍋《なべ》と鉄瓶《てつびん》とを懸《か》け換《か》える。
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興《すいきょう》と思いますわ」
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私《わたくし》は……」
「御前は主義が嫌《きらい》だと云うのかね」
「嫌も好《すき》もないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢《ぜいたく》を云《い》や誰だって際限はない」
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構《おかま》いなすっちゃ下さらないのでしょう」
「このてっか味噌は非常に辛《から》いな。どこで買って来たのだ」
「どこですか」
 道也先生は頭をあげて向《むこう》の壁を見た。鼠色《ねずみいろ》の寒い色の上に大きな細君の影が写っている。その影と妻君とは同じように無意義に道也の眼に映じた。
 影の隣りに糸織《いとおり》かとも思われる、女の晴衣《はれぎ》が衣紋竹《えもんだけ》につるしてかけてある。細君のものにしては少し派出《はで》過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎《いなか》で買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。己《おの》れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先《そっせん》して世間を警醒《けいせい》しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌《おうか》する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮《うわかわ》たる附属物をもってすべてを律しようとする。この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同《らいどう》して他の人格を蹂躙《じゅうりん》せんと試みる。天下|一人《いちにん》の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商《しんしょう》、百の博士をもってするも償《つぐな》いがたきほど貴《たっと》きものである。われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒《かん》に衣《い》し、餓《うえ》に食《しょく》するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵《か》し硯《すずり》を磨《ま》するのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。この信念を抱《いだ》いて世に処する道也は細君の御機嫌《ごきげん》ばかり取ってはおれぬ。
 壁に掛けてあった小袖《こそで》を眺めていた道也はしばらくして、夕飯《ゆうめし》を済ましながら、
「どこぞへ行ったのかい」と聞く。
「ええ」と細君は二字の返事を与えた。道也は黙って、茶を飲んでいる。末枯《うらが》るる秋の時節だけにすこぶる閑静な問答である。
「そう、べんべんと真田《さなだ》の方を引っ張っとく訳《わけ》にも行きませず、家主の方もどうかしなければならず、今月の末になると米薪《こめまき》の払《はらい》でまた心配しなくっちゃなりませんから、算段《さんだん》に出掛《でか》けたんです」と今度は細君の方から切り出した。
「そうか、質屋へでも行ったのかい」
「質に入れるようなものは、もうありゃしませんわ」と細君は恨《うら》めしそうに夫の顔を見る。
「じゃ、どこへ行ったんだい」
「どこって、別に行く所もありませんから、御兄《おあにい》さんの所へ行きました」
「兄の所《とこ》? 駄目《だめ》だよ。兄の所《ところ》なんぞへ行ったって、何になるものか」
「そう、あなたは、何でも始から、けなしておしまいなさるから、よくないんです。いくら教育が違うからって、気性《きしょう》が合わないからって、血を分けた兄弟じゃありませんか」
「兄弟は兄弟さ。兄弟でないとは云わん」
「だからさ、膝《ひざ》とも談合と云うじゃありませんか。こんな時には、ちっと相談にいらっしゃるがいいじゃありませんか」
「おれは、行かんよ」
「それが痩我慢《やせがまん》ですよ。あなたはそれが癖なんですよ。損じゃあ、ありませんか、好んで人に嫌《きら》われて……」
 道也先生は空然《くうぜん》として壁に動く細君の影を見ている。
「それで才覚が出来たのかい」
「あなたは何でも一足飛《いっそくとび》ね」
「なにが」
「だって、才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆《こんたん》もあれば工面《くめん》もあるじゃありませんか」
「そうか、それじゃ最初から聞き直そう。で、御前が兄のうちへ行ったんだね。おれに内所《ないしょ》で」
「内所だって、あなたのためじゃありませんか」
「いいよ、ためでいいよ。それから」
「で御兄《おあにい》さんに、御目に懸《かか》っていろいろ今までの御無沙汰《ごぶさた》の御詫《おわび》やら、何やらして、それから一部始終《いちぶしじゅう》の御話をしたんです」
「それから」
「すると御兄《おあにい》さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変|私《わたくし》に同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――ちょっとその炭取を取れ。炭をつがないと火種《ひだね》が切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今まで抛《ほう》って置いたんだっておっしゃるんです」
「旨《うま》い事を云わあ」
「まだ、あなたは御兄《おあにい》さんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ」
「それで、金でも貸したのかい」
「ほらまた一足飛《いっそくと》びをなさる」
 道也先生は少々おかしくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどのくらいあれば、これまでの穴が奇麗《きれい》に埋《うま》るのかと御聞きになるから、――よっぽど言い悪《にく》かったんですけれども――とうとう思い切ってね……」でちょっと留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いていらっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気《かっき》で赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円ばかりと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、なかなか容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」
「まあ聞いていらっしゃい。まだ、あとが有るんです。――しかし、ほかの事とは違うから、是非なければ困ると云うならおれが保証人になって、人から借りてやってもいいって仰しゃるんです」
「あやしいものだ」
「まあさ、しまいまで御聞きなさい。――それで、ともかくも本人に逢って篤《とく》と了簡《りょうけん》を聞いた上にしようと云うところまでに漕《こ》ぎつけて来たのです」
 細君は大功名をしたように頬骨《ほおぼね》の高い顔を持ち上げて、夫《おっと》を覗《のぞ》き込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地《いくじ》なしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々《こつこつ》と出精《しゅっせい》しながら、妻《さい》と自分を安らかに養うほどの働きもない。
「そうか」と道也は云ったぎり、この手腕に対して、別段に感謝の意を表しようともせぬ。
「そうかじゃ困りますわ。私がここまで拵《こしら》えたのだから、あとは、あなたが、どうとも為《な》さらなくっちゃあ。あなたの楫《かじ》のとりようでせっかくの私の苦心も何の役にも立たなくなりますわ」
「いいさ、そう心配するな。もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入《はい》る見込があるから」と道也先生は何の苦もなく云って退《の》けた。
 江湖雑誌《こうこざっし》の編輯《へんしゅう》で二十円、英和字典の編纂《へんさん》で十五円、これが道也のきまった収入である。但《ただ》しこのほかに仕事はいくらでもする。新聞にかく、雑誌にかく。かく事においては毎日毎夜筆を休ませた事はないくらいである。しかし金にはならない。たまさか二円、三円の報酬が彼の懐《ふところ》に落つる時、彼はかえって不思議に思うのみである。
 この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡《うち》には彼の生命がある。彼の気魄《きはく》が滴々《てきてき》の墨汁《ぼくじゅう》と化して、一字一画に満腔《まんこう》の精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏《とうり》に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那《せつな》に震《ふる》えかしと念じて、道也は筆を執《と》る。吾輩は道を載《の》す。道を遮《さえ》ぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭《しとう》より迸《ほとばし》って、尖《とが》る毛穎《もうえい》の端《たん》に紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句を綴《つづ》る。白紙が人格と化して、淋漓《りんり》として飛騰《ひとう》する文章があるとすれば道也の文章はまさにこれである。されども世は華族、紳商、博士、学士の世である。附属物が本体を踏み潰《つぶ》す世である。道也の文章は出るたびに黙殺せられている。妻君は金にならぬ文章を道楽文章と云う。道楽文章を作るものを意気地《いくじ》なしと云う。
 道也の言葉を聞いた妻君は、火箸《ひばし》を灰のなかに刺したまま、
「今でも、そんな御金が這入《はい》る見込があるんですか」と不思議そうに尋ねた。
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気《どっき》を抜かれて口をあける。
「どうりゃ一勉強《ひとべんきょう》やろうか」と道也は立ち上がる。その夜彼は彼の著述人格論を二百五十頁までかいた。寝たのは二時過である。

0 件のコメント: