2008年11月10日月曜日

「どこへ行く」と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹《みき》が黒ずんだ色のなかから、銀のような光りを秋の日に射返して、梢《こずえ》を離れる病葉《わくらば》は風なき折々行人《こうじん》の肩にかかる。足元には、ここかしこに枝を辞したる古い奴《やつ》ががさついている。
 色は様々である。鮮血を日に曝《さら》して、七日《なぬか》の間|日《ひ》ごとにその変化を葉裏に印して、注意なく一枚のなかに畳み込めたら、こんな色になるだろうと高柳君はさっきから眺《なが》めていた。血を連想した時高柳君は腋《わき》の下から何か冷たいものが襯衣《シャツ》に伝わるような気分がした。ごほんと取り締りのない咳《せき》を一つする。
 形も様々である。火にあぶったかき餅《もち》の状《なり》は千差万別であるが、我も我もとみんな反《そ》り返《かえ》る。桜の落葉もがさがさに反《そ》り返って、反り返ったまま吹く風に誘われて行く。水気《みずけ》のないものには未練も執着もない。飄々《ひょうひょう》としてわが行末を覚束《おぼつか》ない風に任せて平気なのは、死んだ後《あと》の祭りに、から騒ぎにはしゃぐ了簡《りょうけん》かも知れぬ。風にめぐる落葉と攫《さら》われて行くかんな屑《くず》とは一種の気狂《きちがい》である。ただ死したるものの気狂である。高柳君は死と気狂とを自然界に点綴《てんてつ》した時、瘠《や》せた両肩を聳《そび》やかして、またごほんと云ううつろな咳《せき》を一つした。
 高柳君はこの瞬間に中野君からつらまえられたのである。ふと気がついて見ると世は太平である。空は朗らかである。美しい着物をきた人が続々行く。相手は薄羅紗《うすらしゃ》の外套《がいとう》に恰好《かっこう》のいい姿を包んで、顋《あご》の下に真珠の留針《とめばり》を輝かしている。――高柳君は相手の姿を見守ったなり黙っていた。
「どこへ行く」と青年は再び問うた。
「今図書館へ行った帰りだ」と相手はようやく答えた。
「また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい」
「近頃は喜劇の面《めん》をどこかへ遺失《おと》してしまった」
「また新橋の先まで探《さ》がしに行って、拳突《けんつく》を喰ったんじゃないか。つまらない」
「新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ」
「何を」
「何でも御やめだ」
「万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ」
「どこへ」
「今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行《い》き手《て》がないから、ちょうどいい。君行きたまえ」
「いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな」
「なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね」
「それじゃ余った方を送ってやればいいのに」
「実は君の所へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
 高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩《も》らして、右の手に握ったままの、山羊《やぎ》の手袋で外套《がいとう》の胸をぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。
「穿《は》めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい」
「なに、今ちょっと隠袋《ポッケット》から出したんだ」と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏《うち》に収めた。高柳君の癇癪《かんしゃく》はこれで少々治《おさ》まったようである。
 ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄《ひづめ》の音が風を動かしてくる。両人《ふたり》は足早に道傍《みちばた》へ立ち退《の》いた。黒塗《くろぬり》のランドーの蓋《おおい》を、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹帽《シルクハット》が一つ、美しい紅《くれな》いの日傘《ひがさ》が一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋《あご》で馬車の後ろ影を指《さ》す。
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は教えた。
「よく、知ってるね。君はあの人の家来かい」
「家来じゃない」と中野君は真面目《まじめ》に弁解した。高柳君は腹のなかでまたちょっと愉快を覚えた。
「どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ」
「おくれると逢えないと云うのかね」
 中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。
「とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊《ひとりぼ》っちになってしまうんだよ」
 打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。
「いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する」
 相手は同情の笑を湛《たた》えながら半歩|踵《くびす》をめぐらしかけた。高柳君はまた打たれた。
「いこう」と単簡《たんかん》に降参する。彼が音楽会へ臨むのは生れてから、これが始めてである。
 玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙殺《ぼうさつ》されて、接待掛りの胸につけた、青いリボンを見失うほど込み合っていた。突き当りを右へ折れるのが上等で、左りへ曲がるのが並等である。下等はないそうだ。中野君は無論上等である。高柳君を顧みながら、こっちだよと、さも物馴《ものな》れたさまに云う。今日に限って、特別に下等席を設けて貰って、そこへ自分だけ這入《はい》って聴《き》いて見たいと一人坊っちの青年は、中野君のあとをつきながら階段を上ぼりつつ考えた。己《おの》れの右を上《のぼ》る人も、左りを上る人も、またあとからぞろぞろついて来るものも、皆異種類の動物で、わざと自分を包囲して、のっぴきさせず二階の大広間へ押し上げた上、あとから、慰み半分に手を拍《う》って笑う策略《さくりゃく》のように思われた。後ろを振り向くと、下から緑《みど》りの滴《した》たる束髪《そくはつ》の脳巓《のうてん》が見える。コスメチックで奇麗《きれい》な一直線を七分三分の割合に錬《ね》り出した頭蓋骨《ずがいこつ》が見える。これらの頭が十も二十も重なり合って、もう高柳周作は一歩でも退く事はならぬとせり上がってくる。
 楽堂の入口を這入《はい》ると、霞《かすみ》に酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂《いただき》に攀《よ》じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺《なが》めが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥《はる》かの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼《せま》る擂鉢《すりばち》の底に近寄らねばならぬ。擂鉢《すりばち》の底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀《へい》が段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天井《てんじょう》まで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。excuse me と云って、大きな異人が、高柳君を蔽《おお》いかぶせるようにして、一段下へ通り抜けた。駝鳥《だちょう》の白い毛が鼻の先にふらついて、品のいい香りがぷんとする。あとから、脳巓《のうてん》の禿《は》げた大男が絹帽《シルクハット》を大事そうに抱えて身を横にして女につきながら、二人を擦《す》り抜ける。
「おい、あすこに椅子が二つ空《あ》いている」と物馴《ものな》れた中野君は階段を横へ切れる。並んでいる人は席を立って二人を通す。自分だけであったら、誰も席を立ってくれるものはあるまいと高柳君は思った。
「大変な人だね」と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
 高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注《そそ》がれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被《かぶ》っていたものはこの広い演奏場に自分一人である。
「外套《がいとう》は着ていてもいいのか」と中野君に聞いて見る。
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟《えり》を三寸ばかり颯《さ》と返したら、左の袖《そで》がするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領《えり》のあたりをつまんだと思ったら、裏を表《おも》てに、外套ははや畳まれて、椅子《いす》の背中《せなか》を早くも隠した。下は仕立《した》ておろしのフロックに、近頃|流行《はや》る白いスリップが胴衣《チョッキ》の胸開《むねあき》を沿うて細い筋を奇麗《きれい》にあらわしている。高柳君はなるほどいい手際《てぎわ》だと羨《うらや》ましく眺めていた。中野君はどう云《いう》ものか容易に坐らない。片手を椅子の背に凭《も》たせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨《うらや》ましく感じた。
 しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬《そうきょう》に愛嬌《あいきょう》の渦《うず》を浮かして、軽《かろ》く何人《なんびと》にか会釈《えしゃく》した。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨拶《あいさつ》はどの辺《へん》に落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩《ね》じ向けて、斜《なな》めに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶《ちょう》を颯《さっ》とひらめかして、細くうねる頸筋《くびすじ》を今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅《くれな》いは眼の縁《ふち》を薄く染めて、潤《うるお》った眼睫《まつげ》の奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。
 わが穿《は》く袴《はかま》は小倉《こくら》である。羽織は染めが剥《は》げて、濁った色の上に垢《あか》が容赦《ようしゃ》なく日光を反射する。湯には五日前に這入《はい》ったぎりだ。襯衣《シャツ》を洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡《うち》に綺羅《きら》の香《かお》りを嗅《か》ぎ、和楽の温《あたた》かみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶《と》けて流れて、かき鳴らす箏《こと》の線《いと》の細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双手《そうしゅ》を挙《あ》げながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五|指《し》を弾《はじ》いて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。
「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。
「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。
 一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得ている。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時|拍手《はくしゅ》の音が急に梁《はり》を動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。
 やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅《もみ》の木が半分見えて後ろは遐《はる》かの空の国に入る。左手の碧《みど》りの窓掛けを洩《も》れて、澄み切った秋の日が斜《なな》めに白い壁を明らかに照らす。
 曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛《けんらん》たる空気の振動を鼓膜《こまく》に聞いた。声にも色があると嬉《うれ》しく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶《とび》の舞う様《さま》を眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。
 拍手がまた盛《さかん》に起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一人坊《ひとりぼ》っちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲《たた》いている。高い高い鳶の空から、己《おの》れをこの窮屈《きゅうくつ》な谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。
 演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天井《てんじょう》を見る。周囲一尺もあろうと思われる梁の六角形に削《けず》られたのが三本ほど、楽堂を竪《たて》に貫《つら》ぬいている、後ろはどこまで通っているか、頭《かしら》を回《めぐ》らさないから分らぬ。所々に模様に崩《くず》した草花が、長い蔓《つる》と共に六角を絡《から》んでいる。仰向《あおむ》いて見ていると広い御寺のなかへでも這入《はい》った心持になる。そうして黄色い声や青い声が、梁を纏《まと》う唐草《からくさ》のように、縺《もつ》れ合って、天井から降《ふ》ってくる。高柳君は無人《むにん》の境《きょう》に一人坊っちで佇《たたず》んでいる。
 三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰《あられ》のごとき拍手のなかに包囲された一人坊っちとなる。包囲はなかなか已《や》まぬ。演奏者が闥《たつ》を排《はい》してわが室《しつ》に入らんとする間際《まぎわ》になおなお烈《はげ》しくなった。ヴァイオリンを温かに右の腋下《えきか》に護《まも》りたる演奏者は、ぐるりと戸側《とぎわ》に体《たい》を回《めぐ》らして、薄紅葉《うすもみじ》を点じたる裾模様《すそもよう》を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄《ひるが》える袖《そで》の影に受けとって、なよやかなる上躯《じょうく》を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴《き》いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸《ぬす》み聴いたのである。
 演奏は喝采《かっさい》のどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥《はる》かの向うから熟柿《じゅくし》のような色の暖かい太陽が、のっと上《のぼ》ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯斥《ひんせき》しているように見える。たった一人の友達さえ肝心《かんじん》のところで無残《むざん》の手をぱちぱち敲《たた》く。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その親があれば始からこんなにはならなかったろう。七つの時おやじは、どこかへ行ったなり帰って来ない。友達はそれから自分と遊ばなくなった。母に聞くと、おとっさんは今に帰る今に帰ると云った。母は帰らぬ父を、帰ると云ってだましたのである。その母は今でもいる。住み古《ふ》るした家を引き払って、生れた町から三里の山奥に一人|佗《わ》びしく暮らしている。卒業をすれば立派になって、東京へでも引き取るのが子の義務である。逃げて帰れば親子共|餓《う》えて死ななければならん。――たちまち拍手の声が一面に湧《わ》き返る。
「今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君」と中野君が聞く。
「うん」
「君面白くないか」
「そうさな」
「そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細《こま》かい友禅《ゆうぜん》の着物を着ている女があるだろう。――あんな模様が近頃|流行《はやる》んだ。派出《はで》だろう」
「そうかなあ」
「君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見醒《みざ》めがしない。うつくしくっていい」
「君のあれも、同じようなのを着ているね」
「え、そうかしら、何、ありゃ、いい加減《かげん》に着ているんだろう」
「いい加減に着ていれば弁解になるのかい」
 中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻眼鏡《はなめがね》をかけて揉上《もみあげ》を容赦《ようしゃ》なく、耳の上で剃《そ》り落した男が帳面を出してしきりに何か書いている。
「ありゃ、音楽の批評でもする男かな」と今度は高柳君が聞いた。
「どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画工《えかき》だよ。いつでも来る男だがね、来るたんびに写生帖を持って来て、人の顔を写している」
「断わりなしにか」
「まあ、そうだろう」
「泥棒だね。顔泥棒だ」
 中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十|分《ぷん》である。廊下へ出るもの、喫煙に行くもの、用を足《た》して帰るもの、が高柳君の眼に写る。女は小供の時見た、豊国《とよくに》の田舎源氏《いなかげんじ》を一枚一枚はぐって行く時の心持である。男は芳年《よしとし》の書いた討ち入り当夜の義士が動いてるようだ。ただ自分が彼らの眼にどう写るであろうかと思うと、早く帰りたくなる。自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡蝶《こちょう》の花に戯《たわ》むるるがごとく、浮藻《うきも》の漣《さざなみ》に靡《なび》くがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。
 自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和煦《わく》の作用ではない粛殺《しゅくさつ》の運行である。儼《げん》たる天命に制せられて、無条件に生を享《う》けたる罪業《ざいごう》を償《つぐな》わんがために働らくのである。頭から云えば胡蝶のごとく、かく翩々《へんぺん》たる公衆のいずれを捕《とら》え来《きた》って比較されても、少しも恥《はず》かしいとは思わぬ。云いたき事、云うて人が点頭《うなず》く事、云うて人が尊《たっと》ぶ事はないから云わぬのではない。生活の競争にすべての時間を捧《ささ》げて、云うべき機会を与えてくれぬからである。吾《われ》が云いたくて云われぬ事は、世が聞きたくても聞かれぬ事は、天がわが手を縛《ばく》するからである。人がわが口を箝《かん》するからである。巨万の富をわれに与えて、一銭も使うなかれと命ぜられたる時は富なき昔《むか》しの心安きに帰る能《あた》わずして、命《めい》を下せる人を逆《さか》しまに詛《のろ》わんとす。われは呪《のろ》い死にに死なねばならぬか。――たちまち咽喉《のど》が塞《ふさ》がって、ごほんごほんと咳《せ》き入《い》る。袂《たもと》からハンケチを出して痰《たん》を取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙《あ》げると、肩から観世《かんぜ》よりのように細い金鎖《きんぐさ》りを懸《か》けて、朱に黄を交《まじ》えた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨拶《あいさつ》している。
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細めに云う。
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突《けんつく》を喰わす。
 相手は驚ろいて黙ってしまった。途端《とたん》に休憩後の演奏は始まる。「四葉《よつば》の苜蓿花《うまごやし》」とか云うものである。曲の続く間は高柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒《さ》めたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚《よ》び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼《どら》を敲《たた》き大喇叭《おおらっぱ》を吹くところであった。
 やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉《も》まれながらに門を出た。
 日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳《そび》える松の林が緑りの色を微《かす》かに残して、しだいに黒い影に変って行く。
「寒くなったね」
 高柳君の答は力の抜けた咳《せき》二つであった。
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖《とが》った肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏《いちょう》に墨汁《ぼくじゅう》を点《てん》じたような滴々《てきてき》の烏《からす》が乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。
「君|二三日前《にさんちまえ》に白井道也《しらいどうや》と云う人が来たぜ」
「道也先生?」
「だろうと思うのさ。余り沢山ある名じゃないから」
「聞いて見たかい」
「聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた」
「なぜ」
「だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか」
「追い出されましたかと聞かなくってもいいさ」
「しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ」
「そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい」
「なあに、江湖雑誌《こうこざっし》の記者だって、僕の所へ談話の筆記に来たのさ」
「君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね」
「なぜ」
「なぜって。――可哀想《かわいそう》に、そんなに零落《れいらく》したかなあ。――君道也先生、どんな、服装《なり》をしていた」
「そうさ、あんまり立派じゃないね」
「立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた」
「そうさ。どのくらいとも云い悪《にく》いが、そうさ、まあ君ぐらいなところだろう」
「え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか」
「羽織はもう少し色が好《い》いよ」
「袴《はかま》は」
「袴は木綿《もめん》じゃないが、その代りもっと皺苦茶《しわくちゃ》だ」
「要するに僕と伯仲《はくちゅう》の間か」
「要するに君と伯仲の間だ」
「そうかなあ。――君、背《せい》の高い、ひょろ長い人だぜ」
「背の高い、顔の細長い人だ」
「じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分|無慈悲《むじひ》なものだなあ。――君番地を知ってるだろう」
「番地は聞かなかった」
「聞かなかった?」
「うん。しかし江湖雑誌《こうこざっし》で聞けばすぐわかるさ。何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。どこかで白井道也と云う名を見たようだ」
 音楽会の帰りの馬車や車は最前《さいぜん》から絡繹《らくえき》として二人を後ろから追い越して夕暮を吾家《わがや》へ急ぐ。勇ましく馳《か》けて来た二|梃《ちょう》の人力《じんりき》がまた追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄昏《たそがれ》の白き靄《もや》のなかに、逼《せま》り来る暮色を弾《はじ》き返すほどの目覚《めざま》しき衣《きぬ》は由《よし》ある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。
「僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから」
「西洋軒で会食すると云う約束か」
「うんまあ、そうさ。じゃ失敬」と中野君は向《むこう》へ歩き出す。高柳君は往来の真中へたった一人残された。
 淋しい世の中を池《いけ》の端《はた》へ下《くだ》る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」
 見上げたら西洋軒の二階に奇麗《きれい》な花瓦斯《はなガス》がついていた。

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