2008年11月10日月曜日

 白井道也《しらいどうや》は文学者である。
 八年|前《まえ》大学を卒業してから田舎《いなか》の中学を二三|箇所《かしょ》流して歩いた末、去年の春|飄然《ひょうぜん》と東京へ戻って来た。流す[#「流す」に傍点]とは門附《かどづけ》に用いる言葉で飄然[#「飄然」に傍点]とは徂徠《そらい》に拘《かか》わらぬ意味とも取れる。道也の進退をかく形容するの適否は作者といえども受合わぬ。縺《もつ》れたる糸の片端《かたはし》も眼を着《ちゃく》すればただ一筋の末とあらわるるに過ぎぬ。ただ一筋の出処《しゅっしょ》の裏には十重二十重《とえはたえ》の因縁《いんねん》が絡《から》んでいるかも知れぬ。鴻雁《こうがん》の北に去りて乙鳥《いっちょう》の南に来《きた》るさえ、鳥の身になっては相当の弁解があるはずじゃ。
 始めて赴任《ふにん》したのは越後《えちご》のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在《あ》る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三|分《ぶ》二以上この会社の御蔭《おかげ》で維持されている。町のものに取っては幾個の中学校よりもこの石油会社の方が遥《はる》かにありがたい。会社の役員は金のある点において紳士《しんし》である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗《しょうはい》は誰が眼にも明《あきら》かである。道也はある時の演説会で、金力《きんりょく》と品性《ひんせい》と云《い》う題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗《あん》に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義《こうはくばんのうしゅぎ》を信奉するの弊《へい》とを戒《いまし》めた。
 役員らは生意気《なまいき》な奴《やつ》だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐《は》くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚《ぐ》だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫《みだり》に平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属《しょく》していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然《ひょうぜん》として越後を去った。
 次に渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭礦《たんこう》の煙りを浴びて、黒い呼吸《いき》をせぬ者は人間の資格はない。垢光《あかびか》りのする背広の上へ蒼《あお》い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄《ろう》するものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲《おじひ》である。無駄口を叩《たた》く学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片《いくへん》の紙幣は、どこから湧《わ》いてくる。手の掌《ひら》をぽんと叩《たた》けば、自《おのず》から降る幾億の富の、塵《ちり》の塵の末を舐《な》めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金《かね》の力で活《い》きておりながら、金を誹《そし》るのは、生んで貰った親に悪体《あくたい》をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試《た》めして見ようと云って抛《ほう》り出された時、道也はまた飄然と九州を去った。
 第三に出現したのは中国|辺《へん》の田舎《いなか》である。ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利《き》かして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻《ま》わしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味《いやみ》を並べる。生徒にからかわせる。そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸《かか》るからである。同化は社会の要素に違ない。仏蘭西《フランス》のタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳《くどく》を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分《いちぶん》が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入《はい》って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論|挨拶《あいさつ》もしなかった。これから事が六《む》ずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍《さむらい》が物《もの》の具《ぐ》に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然《ひょうぜん》として任地を去った。去る時に土地のものは彼を目《もく》して頑愚《がんぐ》だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵《ちょうば》を背に受けながら飄然として去った。
 三《み》たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色《けしき》がない。東京は日本で一番|世地辛《せちがら》い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛《なげう》って両手を袂《たもと》へ入れたままで遣《や》り切《き》るのは、立ちながらみいら[#「みいら」に傍点]となる工夫《くふう》と評するよりほかに賞《ほ》めようのない方法である。
 道也には妻《さい》がある。妻と名がつく以上は養うべき義務は附随してくる。自《みず》からみいら[#「みいら」に傍点]となるのを甘んじても妻を干乾《ひぼし》にする訳《わけ》には行かぬ。干乾にならぬよほど前から妻君はすでに不平である。
 始めて越後《えちご》を去る時には妻君に一部始終《いちぶしじゅう》を話した。その時妻君はごもっともでござんすと云って、甲斐甲斐《かいがい》しく荷物の手拵《てごしらえ》を始めた。九州を去る時にもその顛末《てんまつ》を云って聞かせた。今度はまたですかと云ったぎり何にも口を開かなかった。中国を出る時の妻君の言葉は、あなたのように頑固《がんこ》ではどこへいらしっても落ちつけっこありませんわと云う訓戒的の挨拶《あいさつ》に変化していた。七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君はしだいと自分の傍を遠退《とおの》くようになった。
 妻君が自分の傍を遠退くのは漂泊のためであろうか、俸禄《ほうろく》を棄《す》てるためであろうか。何度漂泊しても、漂泊するたびに月給が上がったらどうだろう。妻君は依然として「あなたのように……」と不服がましい言葉を洩《も》らしたろうか。博士にでもなって、大学教授に転任してもやはり「あなたのように……」が繰り返されるであろうか。妻君の了簡《りょうけん》は聞いて見なければ分らぬ。
 博士になり、教授になり、空《むな》しき名を空しく世間に謳《うた》わるるがため、その反響が妻君の胸に轟《とどろ》いて、急に夫《おっと》の待遇を変えるならばこの細君は夫の知己《ちき》とは云えぬ。世の中が夫を遇する朝夕《ちょうせき》の模様で、夫の価値を朝夕に変える細君は、夫を評価する上において、世間並《せけんなみ》の一人である。嫁《とつ》がぬ前、名を知らぬ前、の己《おの》れと異なるところがない。従って夫から見ればあかの他人である。夫を知る点において嫁ぐ前と嫁ぐ後《のち》とに変りがなければ、少なくともこの点において細君らしいところがないのである。世界はこの細君らしからぬ細君をもって充満している。道也は自分の妻《さい》をやはりこの同類と心得ているだろうか。至る所に容《い》れられぬ上に、至る所に起居を共にする細君さえ自分を解してくれないのだと悟ったら、定めて心細いだろう。
 世の中はかかる細君をもって充満していると云った。かかる細君をもって充満しておりながら、皆円満にくらしている。順境にある者が細君の心事をここまでに解剖する必要がない。皮膚病に罹《かか》ればこそ皮膚の研究が必要になる。病気も無いのに汚ないものを顕微鏡《けんびきょう》で眺《なが》めるのは、事なきに苦しんで肥柄杓《こえびしゃく》を振り廻すと一般である。ただこの順境が一転して逆落《さかおと》しに運命の淵《ふち》へころがり込む時、いかな夫婦の間にも気まずい事が起る。親子の覊絆《きずな》もぽつりと切れる。美くしいのは血の上を薄く蔽《おお》う皮の事であったと気がつく。道也はどこまで気がついたか知らぬ。
 道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥《おちい》るためではない。罪もない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己《おの》れを容れぬから仕方がないのである。世が容れぬならなぜこちらから世に容れられようとはせぬ? 世に容れられようとする刹那《せつな》に道也は奇麗《きれい》に消滅してしまうからである。道也は人格において流俗《りゅうぞく》より高いと自信している。流俗より高ければ高いほど、低いものの手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きにつくのは、自から多年の教育を受けながら、この教育の結果がもたらした財宝を床下《ゆかした》に埋《うず》むるようなものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、せっかくに築き上げた人格は、築きあげぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力だけを徒費した訳になる。英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、人格の修養に附随して蓄《たくわ》えられた、芸を教えたのである。単にこの芸を目的にして学問をしたならば、教場で書物を開いてさえいれば済む。書物を開いて飯を食って満足しているのは綱渡りが綱を渡って飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論において異なるところはない。学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽重《けいちょう》の等差を知る、好悪《こうお》の判然する、善悪の分界を呑《の》み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬《あや》まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。
 道也はこう考えている。だから芸を售《う》って口を糊《こ》するのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣《ろうれつ》と心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去就《きょしゅう》であるから、彼自身は内に顧《かえり》みて疚《やま》しいところもなければ、意気地がないとも思いつかぬ。頑愚《がんぐ》などと云う嘲罵《ちょうば》は、掌《てのひら》へ載《の》せて、夏の日の南軒《なんけん》に、虫眼鏡《むしめがね》で検査しても了解が出来ん。
 三度《みたび》教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄《てがら》を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位《じゅごい》をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神よりも貴《たっと》しとは道也が追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつてこの文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。
 わからねばこそ餓《う》え死《じ》にもせぬ先から、夫に対して不平なのである。不平な妻《さい》を気の毒と思わぬほどの道也ではない。ただ妻の歓心を得るために吾《わ》が行く道を曲げぬだけが普通の夫と違うのである。世は単に人と呼ぶ。娶《めと》れば夫である。交《まじ》われば友である。手を引けば兄、引かるれば弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。さるを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足るほどの世間なら単純である。妻君は常にこの単純な世界に住んでいる。妻君の世界には夫としての道也のほかには学者としての道也もない、志士としての道也もない。道を守り俗に抗する道也はなおさらない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到《いた》る所に職を辞するのは、自から求むる酔興《すいきょう》にほかならんとまで考えている。
 酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎《いなか》へは行かぬと言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正《きょうせい》するには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今まではいずこの果《はて》で、どんな職業をしようとも、己《おの》れさえ真直であれば曲がったものは苧殻《おがら》のように向うで折れべきものと心得ていた。盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼《まなこ》を開かしむるため、取捨分別《しゅしゃふんべつ》の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟《りくつ》のよく分かる所に聚《あつ》まると早合点《はやがてん》して、この年月《としつき》を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身《わがみ》に、待ち受けたのは生涯《しょうがい》の誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随《したが》う影にほかならぬ。
 ここまで進んでおらぬ世を買い被《かぶ》って、一足飛《いっそくと》びに田舎へ行ったのは、地ならしをせぬ地面の上へ丈夫な家を建てようとあせるようなものだ。建てかけるが早いか、風と云い雨と云う曲者《くせもの》が来て壊《こわ》してしまう。地ならしをするか、雨風《あめかぜ》を退治《たいじ》るかせぬうちは、落ちついてこの世に住めぬ。落ちついて住めぬ世を住めるようにしてやるのが天下の士の仕事である。
 金《かね》も勢《いきおい》もないものが天下の士に恥じぬ事業を成すには筆の力に頼らねばならぬ。舌の援《たすけ》を藉《か》らねばならぬ。脳味噌《のうみそ》を圧搾《あっさく》して利他《りた》の智慧《ちえ》を絞《しぼ》らねばならぬ。脳味噌は涸《か》れる、舌は爛《ただ》れる、筆は何本でも折れる、それでも世の中が云う事を聞かなければそれまでである。
 しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱《しんぼう》する気遣《きづかい》はない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。今年の春、田舎から出て来て、芝琴平町《しばことひらちょう》の安宿へ着いた時、道也と妻君の間にはこんな会話が起った。
「教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか」
「別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」
「その内《うち》どうかなるだろうって、それじゃまるで雲を攫《つか》むような話しじゃありませんか」
「そうさな。あんまり判然《はんぜん》としちゃいない」
「そう呑気《のんき》じゃ困りますわ。あなたは男だからそれでようござんしょうが、ちっとは私の身にもなって見て下さらなくっちゃあ……」
「だからさ、もう田舎へは行かない、教師にもならない事にきめたんだよ」
「きめるのは御勝手ですけれども、きめたって月給が取れなけりゃ仕方がないじゃありませんか」
「月給がとれなくっても金がとれれば、よかろう」
「金がとれれば……そりゃようござんすとも」
「そんなら、いいさ」
「いいさって、御金がとれるんですか、あなた」
「そうさ、まあ取れるだろうと思うのさ」
「どうして?」
「そこは今考え中だ。そう着《ちゃく》、早々《そうそう》計画が立つものか」
「だから心配になるんですわ。いくら東京にいるときめたって、きめただけの思案《しあん》じゃ仕方がないじゃありませんか」
「どうも御前《おまえ》はむやみに心配性でいけない」
「心配もしますわ、どこへいらしっても折合《おりあい》がわるくっちゃ、おやめになるんですもの。私が心配性なら、あなたはよっぽど癇癪持《かんしゃくも》ちですわ」
「そうかも知れない。しかしおれの癇癪は……まあ、いいや。どうにか東京で食えるようにするから」
「御兄《おあにい》さんの所へいらしって御頼みなすったら、どうでしょう」
「うん、それも好いがね。兄はいったい人の世話なんかする男じゃないよ」
「あら、そう何でも一人できめて御《お》しまいになるから悪るいんですわ。昨日《きのう》もあんなに親切にいろいろ言って下さったじゃありませんか」
「昨日か。昨日はいろいろ世話を焼くような事を言った。言ったがね……」
「言ってもいけないんですか」
「いけなかないよ。言うのは結構だが……あんまり当《あて》にならないからな」
「なぜ?」
「なぜって、その内だんだんわかるさ」
「じゃ御友達の方にでも願って、あしたからでも運動をなすったらいいでしょう」
「友達って別に友達なんかありゃしない。同級生はみんな散ってしまった」
「だって毎年年始状を御寄《およ》こしになる足立《あだち》さんなんか東京で立派にしていらっしゃるじゃありませんか」
「足立か、うん、大学教授だね」
「そう、あなたのように高くばかり構えていらっしゃるから人に嫌《きら》われるんですよ。大学教授だねって、大学の先生になりゃ結構じゃありませんか」
「そうかね。じゃ足立の所へでも行って頼んで見ようよ。しかし金さえ取れれば必ず足立の所へ行く必要はなかろう」
「あら、まだあんな事を云っていらっしゃる。あなたはよっぽど強情ね」
「うん、おれはよっぽど強情だよ」

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