2008年11月10日月曜日

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白き蝶《ちょう》の、白き花に、
小《ちさ》き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂《うれい》は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分《のわき》の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ。
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と女はうたい了《おわ》る。銀椀《ぎんわん》に珠《たま》を盛りて、白魚《しらうお》の指に揺《うご》かしたらば、こんな声がでようと、男は聴《き》きとれていた。
「うまく、唱《うた》えました。もう少し稽古《けいこ》して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしにやって見ませんか」
「厭《いや》だわ、ためしだなんて」
「それじゃ本式に」
「本式にゃなおできませんわ」
「それじゃ、つまりおやめと云う訳《わけ》ですか」
「だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ」
「その新体詩はいいでしょう」
「ええ、わたし大好き」
「あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか」
「写真に?」
「ええ、厭ですか」
「厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう」
「見せてわるければ、わたし一人で見ています」
 女は何《な》にも云わずに眼を横に向けた。こぼれ梅を一枚の半襟《はんえり》の表《おもて》に掃き集めた真中《まんなか》に、明星《みょうじょう》と見まがうほどの留針《とめばり》が的※[#「白+樂」、第3水準1-88-69]《てきれき》と耀《かがや》いて、男の眼を射る。
 女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交趾《こうち》の鉢《はち》に細き蘭《らん》が揺《ゆ》るがんとして、香《こう》の煙りのたなびくを待っている。上段にはメロスの愛神《ヴィーナス》の模像を、ほの暗き室《へや》の隅に夢かとばかり据《す》えてある。女の眼は端《はし》なくもこの裸体像の上に落ちた。
「あの像は」と聞く。
「無論模造です。本物は巴理《パリ》のルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます」
「本物も欠けてるんですか」
「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」
「何の像でしょう」
「ヴィーナス。愛の神です」と男はことさらに愛と云う字を強く云った。
「ヴィーナス!」
 深い眼睫《まつげ》の奥から、ヴィーナスは溶《と》けるばかりに見詰められている。冷《ひや》やかなる石膏《せっこう》の暖まるほど、丸《まろ》き乳首《ちくび》の、呼吸につれて、かすかに動くかと疑《あや》しまるるほど、女は瞳《ひとみ》を凝《こ》らしている。女自身も艶《えん》なるヴィーナスである。
「そう」と女はやがて、かすかな声で云う。
「あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ」
「これで愛の神でしょうか」と女はようやく頭《かしら》を回《めぐ》らした。
 あなたの方が愛の神らしいと云おうとしたが、女と顔を見合した時、男は急に躊躇《ちゅうちょ》した。云えば女の表情が崩《くず》れる。この、訝《いぶか》るがごとく、訴うるがごとく、深い眼のうちに我を頼るがごとき女の表情を一瞬たりとも、我から働きかけて打《う》ち壊《こわ》すのは、メロスのヴィーナスの腕《かいな》を折ると同じく大《おおい》なる罪科《ざいか》である。
「気高《けだか》過ぎて……」と男の我を援《たす》けぬをもどかしがって女は首を傾けながら、我からと顔の上なる姿を変えた。男はしまったと思う。
「そう、すこし堅過ぎます。愛と云う感じがあまり現われていない」
「何だか冷《つ》めたいような心持がしますわ」
「その通りだ。冷めたいと云うのが適評だ。何だか妙だと思っていたが、どうも、いい言葉が出て来なかったんです。冷めたい――冷めたい、と云うのが一番いい」
「なぜこんなに、拵《こし》らえたんでしょう」
「やっぱりフ※[#小書き片仮名ヒ、1-6-84]ジアス式だから厳格なんでしょう」
「あなたは、こう云うのが御好き」
 女は石像をさえ、自分と比較して愛人の心を窺《うかが》って見る。ヴィーナスを愛するものは、自分を愛してはくれまいと云う掛念《けねん》がある。女はヴィーナスの、神である事を忘れている。
「好きって、いいじゃありませんか、古今《ここん》の傑作ですよ」
 女の批判は直覚的である。男の好尚《こうしょう》は半《なか》ば伝説的である。なまじいに美学などを聴いた因果《いんが》で、男はすぐ女に同意するだけの勇気を失っている。学問は己《おの》れを欺《あざむ》くとは心づかぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。
「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
「そう」と女は云ったばかりである。石火《せっか》を交《まじ》えざる刹那《せつな》に、はっと受けた印象は、学者の一言のために打ち消されるものではない。
「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想《れんそう》がある」
「どんな聯想なの」と女はおとなしく聞きつつ、双《そう》の手を立ちながら膝《ひざ》の上に重ねる。手頸《てくび》からさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣《きぬ》のうちに隠れる。衣は薄紅《うすくれない》に銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らしたような縞柄《しまがら》である。
 上になった手の甲の、五つに岐《わか》れた先の、しだいに細まりてかつ丸く、つやある爪に蔽《おお》われたのが好《い》い感じである。指は細く長く、すらりとした姿を崩《くず》さぬほどに、柔らかな肉を持たねばならぬ。この調《ととの》える姿が五本ごとに異ならねばならぬ。異なる五本が一つにかたまって、纏《まと》まる調子をつくらねばならぬ。美くしき手を持つ人は、美くしき顔を持つ人よりも少ない。美くしき手を持つ人には貴《たっと》き飾りが必要である。
 女は燦《さん》たるものを、細き肉に戴《いただ》いている。
「その指輪は見馴《みな》れませんね」
「これ?」と重ねた手は解《と》けて、右の指に耀《かがや》くものをなぶる。
「この間父様に買っていただいたの」
「金剛石《ダイヤモンド》ですか」
「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」
「あんまり御父さんを苛《いじ》めちゃいけませんよ」
「あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ」
「そりゃ珍らしい現象ですね」
「ホホホホ本当ね。あなたその訳《わけ》を知ってて」
「知るものですか、探偵《たんてい》じゃあるまいし」
「だから御存じないでしょうと云うのですよ」
「だから知りませんよ」
「教えて上げましょうか」
「ええ教えて下さい」
「教えて上げるから笑っちゃいけませんよ」
「笑やしません。この通り真面目《まじめ》でさあ」
「この間ね、池上《いけがみ》に競馬があったでしょう。あの時父様があすこへいらしってね。そうして……」
「そうして、どうしたんです。――拾って来たんですか」
「あら、いやだ。あなたは失敬ね」
「だって、待っててもあとをおっしゃらないですもの」
「今云うところなのよ。そうして賭《かけ》をなすったんですって」
「こいつは驚ろいた。あなたの御父さんもやるんですか」
「いえ、やらないんだけれども、試《ため》しにやって見たんだって」
「やっぱりやったんじゃありませんか」
「やった事はやったの。それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって」
「へえ。それで買って頂いたのですか」
「まあ、そうよ」
「ちょっと拝見」と手を出す。男は耀《かがや》くものを軽《かろ》く抑《おさ》えた。
 指輪は魔物である。沙翁《さおう》は指輪を種に幾多の波瀾《はらん》を描いた。若い男と若い女を目に見えぬ空裏《くうり》に繋《つな》ぐものは恋である。恋をそのまま手にとらすものは指輪である。
 三重《みえ》にうねる細き金の波の、環《わ》と合うて膨《ふく》れ上るただ中を穿《うが》ちて、動くなよと、安らかに据《す》えたる宝石の、眩《まば》ゆさは天《あめ》が下《した》を射れど、毀《こぼ》たねば波の中より奪いがたき運命は、君ありての妾《われ》、妾故《われゆえ》にの君である。男は白き指もろ共に指輪を見詰めている。
「こんな指輪だったのか知らん」と男が云う。女は寄り添うて同じ長椅子《ソーファ》を二人の間に分《わか》つ。
「昔しさる好事家《こうずか》がヴィーナスの銅像を掘り出して、吾《わ》が庭の眺《なが》めにと橄欖《かんらん》の香《か》の濃く吹くあたりに据《す》えたそうです」
「それは御話? 突然なのね」
「それから或《ある》日テニスをしていたら……」
「あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの?」
「銅像を掘り出したのは人足《にんそく》で、テニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です」
「どっちだって同じじゃありませんか」
「主人と人足と同じじゃ少し困る」
「いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう」
「そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」
「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方《ほう》がテニスをするの、ね。いいでしょう」
「どっちでも同じでさあ」
「あら、あなた、御怒《おおこ》りなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか」
「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納《ゆいのう》の指輪なんです」
「誰と結婚をなさるの?」
「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」
「あら、お話しになってもいじゃありませんか」
「隠す訳じゃないが……」
「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」
「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」
「それじゃ、ずるいわ」
「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」
「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」
「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」
「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」
「だって名前を知らないんですもの」
「だからその先を話してちょうだいな」
「名前はなくってもいいのですか」
「ええ」
「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」
「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」
「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎《いなか》へ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合《あい》の指環《ゆびわ》を買って結納《ゆいのう》にしたのです」
「厭《いや》な方ね。不人情だわ」
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人《いじん》だから忘れちまったんです」
「ホホホホ異人だって」
「そこで結納も滞《とどこお》りなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の晩に――」でわざと句を切る。
「結婚の晩にどうしたの」
「結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……」
「おおいやだ」
「どたりどたりと二階を上がって」
「怖《こわ》いわ」
「寝室の戸をあけて」
「気味がわるいわ」
「気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう」
「だけれど、しまいにどうなるの」
「だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて」
「そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの」
「では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷《つ》めたくなって死んでたそうです。ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います」
「おお、厭《いや》だ」と眉《まゆ》をあつめる。艶《えん》なる人の眉をあつめたるは愛嬌《あいきょう》に醋《す》をかけたようなものである。甘き恋に酔《え》い過ぎたる男は折々のこの酸味《さんみ》に舌を打つ。
 濃くひける新月の寄り合いて、互に頭《かしら》を擡《もた》げたる、うねりの下に、朧《おぼろ》に見ゆる情けの波のかがやきを男はひたすらに打ち守る。
「奥さんはどうしたでしょう」女を憐むものは女である。
「奥さんは病気になって、病院に這入《はい》るのです」
「癒《なお》るのですか」
「そうさ。そこまでは覚えていない。どうしたっけかな」
「癒らない法はないでしょう。罪も何もないのに」
 薄きにもかかわらず豊《ゆたか》なる下唇《したくちびる》はぷりぷりと動いた。男は女の不平を愚かなりとは思わず、情け深しと興がる。二人の世界は愛の世界である。愛はもっとも真面目《まじめ》なる遊戯である。遊戯なるが故に絶体絶命の時には必ず姿を隠す。愛に戯《たわ》むるる余裕のある人は至幸である。
 愛は真面目である。真面目であるから深い。同時に愛は遊戯である。遊戯であるから浮いている。深くして浮いているものは水底の藻《も》と青年の愛である。
「ハハハハ心配なさらんでもいいです。奥さんはきっと癒ります」と男はメリメに相談もせず受合った。
 愛は迷《まよい》である。また悟《さと》りである。愛は天地|万有《ばんゆう》をその中《うち》に吸収して刻下《こっか》に異様の生命を与える。故《ゆえ》に迷である。愛の眼《まなこ》を放つとき、大千世界《だいせんせかい》はことごとく黄金《おうごん》である。愛の心に映る宇宙は深き情《なさ》けの宇宙である。故に愛は悟りである。しかして愛の空気を呼吸するものは迷とも悟とも知らぬ。ただおのずから人を引きまた人に引かるる。自然は真空を忌《い》み愛は孤立《こりつ》を嫌《きら》う。
「わたし、本当に御気の毒だと思いますわ。わたしが、そんなになったら、どうしようと思うと」
 愛は己《おの》れに対して深刻なる同情を有している。ただあまりに深刻なるが故に、享楽の満足ある場合に限りて、自己を貫《つらぬ》き出でて、人の身の上にもまた普通以上の同情を寄せる事ができる。あまりに深刻なるが故に失恋の場合において、自己を貫き出でて、人の身の上にもまた普通以上の怨恨《えんこん》を寄せる事が出来る。愛に成功するものは必ず自己を善人と思う。愛に失敗するものもまた必ず自己を善人と思う。成敗《せいばい》に論なく、愛は一直線である。ただ愛の尺度をもって万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬車馬《ばしゃうま》である。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬車馬《ばしゃうま》である。愛はもっともわがままなるものである。
 もっともわがままなる善人が二人、美くしく飾りたる室《しつ》に、深刻なる遊戯を演じている。室外の天下は蕭寥《しょうりょう》たる秋である。天下の秋は幾多の道也《どうや》先生を苦しめつつある。幾多の高柳君を淋しがらせつつある。しかして二人はあくまでも善人である。
「この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね」
「ええ、別に約束した訳《わけ》でもないんですが、途中で逢ったものですから誘ったのです。何だか動物園の前で悲しそうに立って、桜の落葉を眺《なが》めているんです。気の毒になってね」
「よく誘《さそ》って御上《おあ》げになったのね。御病気じゃなくって」
「少し咳《せき》をしていたようです。たいした事じゃないでしょう」
「顔の色が大変|御《お》わるかったわ」
「あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、かえって皮肉を云うのです。何だか近来はますます変になるようです」
「御気の毒ね。どうなすったんでしょう」
「どうしたって、好《この》んで一人坊《ひとりぼ》っちになって、世の中をみんな敵《かたき》のように思うんだから、手のつけようがないです」
「失恋なの」
「そんな話もきいた事もないですがね。いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない」
「御世話をして上げたらいいでしょう」
「世話をするって、ああ気六《きむ》ずかしくっちゃ、駄目ですよ。細君が可哀想《かわいそう》だ」
「でも。御持ちになったら癒《なお》るでしょう」
「少しは癒るかも知れないが、元来《がんらい》が性分《しょうぶん》なんですからね。悲観する癖があるんです。悲観病に罹《かか》ってるんです」
「ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう」
「どうしてですかね。遺伝かも知れません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう」
「何か御聞《おきき》になった事はなくって」
「いいえ、僕ああまりそんな事を聞くのが嫌《きらい》だから、それに、あの男はいっこう何《なん》にも打ち明けない男でね。あれがもっと淡泊《たんぱく》に思った事を云う風だと慰めようもあるんだけれども」
「困っていらっしゃるんじゃなくって」
「生活にですか、ええ、そりゃ困ってるんです。しかし無暗《むやみ》に金をやろうなんていったら擲《たた》きつけますよ」
「だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか、文学士だから」
「取れるですとも。だからもう少し待ってるといいですが、どうも性急《せっかち》で卒業したあくる日からして、立派な創作家になって、有名になって、そうして楽に暮らそうって云うのだから六《む》ずかしい」
「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。やっぱり御百姓なの」
「農《のう》、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。この間あなたが御出《おいで》のとき行《ゆ》き違《ちがい》に出て行った男があるでしょう」
「ええ、あの長い顔の髭《ひげ》を生《は》やした。あれはなに、わたしあの人の下駄を見て吃驚《びっくり》したわ。随分薄っぺらなのね。まるで草履《ぞうり》よ」
「あれで泰然たるものですよ。そうしてちっとも愛嬌《あいきょう》のない男でね。こっちから何か話しかけても、何《なん》にも応答をしない」
「それで何しに来たの」
「江湖雑誌《こうこざっし》の記者と云うんで、談話の筆記に来たんです」
「あなたの? 何か話しておやりになって?」
「ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――それであの男について妙な話しがあるんです。高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ」
「あれで? まあ」
「ところが高柳なんぞが、いろいろな、いたずらをして、苛《いじ》めて追い出してしまったんです」
「あの人を? ひどい事をするのね」
「それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、さぞ先生も追い出されたために難義をしたろう、逢《あ》ったら謝罪するって云ってましたよ」
「全く追い出されたために、あんなに零落《れいらく》したんでしょうか。そうすると気の毒ね」
「それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。だから音楽会の帰りに教えてやったんです」
「高柳さんはいらしったでしょうか」
「行ったかも知れませんよ」
「追い出したんなら、本当に早く御詫《おわび》をなさる方がいいわね」
 善人の会話はこれで一段落を告げる。
「どうです、あっちへ行って、少しみんなと遊《あす》ぼうじゃありませんか。いやですか」
「写真は御やめなの」
「あ、すっかり忘れていた。写真は是非取らして下さい。僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。うん、商売人の取るのは下等ですよ。――写真も五六年この方《かた》大変進歩してね。今じゃ立派な美術です。普通の写真はだれが取ったって同じでしょう。近頃のは個人個人の趣味で調子がまるで違ってくるんです。いらないものを抜いたり、いったいの調子を和《やわら》げたり、際《きわ》どい光線の作用を全景にあらわしたり、いろいろな事をやるんです。早いものでもう景色《けいしょく》専門家や人物専門家が出来てるんですからね」
「あなたは人物の専門家なの」
「僕? 僕は――そうさ、――あなただけの専門家になろうと思うのです」
「厭《いや》なかたね」
 金剛石《ダイヤモンド》がきらりとひらめいて、薄紅《うすくれない》の袖《そで》のゆるる中から細い腕《かいな》が男の膝《ひざ》の方に落ちて来た。軽《かろ》くあたったのは指先ばかりである。
 善人の会話は写真撮影に終る。

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