2008年11月10日月曜日

 午《ご》に逼《せま》る秋の日は、頂《いただ》く帽を透《とお》して頭蓋骨《ずがいこつ》のなかさえ朗《ほがら》かならしめたかの感がある。公園のロハ台はそのロハ台たるの故《ゆえ》をもってことごとくロハ的に占領されてしまった。高柳君《たかやなぎくん》は、どこぞ空《あ》いた所はあるまいかと、さっきからちょうど三度日比谷を巡回した。三度巡回して一脚の腰掛も思うように我を迎えないのを発見した時、重そうな足を正門のかたへ向けた。すると反対の方から同年輩の青年が早足に這入《はい》って来て、やあと声を掛けた。
「やあ」と高柳君も同じような挨拶《あいさつ》をした。
「どこへ行ったんだい」と青年が聞く。
「今ぐるぐる巡《まわ》って、休もうと思ったが、どこも空《あ》いていない。駄目《だめ》だ、ただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。なかなか抜目《ぬけめ》はないもんだな」
「天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟宗藪《もうそうやぶ》を回って噴水の方へ行く人を見たまえ」
「どれ。あの女か。君の知ってる人かね」
「知るものか」
「それじゃ何で見る必要があるのだい」
「あの着物の色さ」
「何だか立派なものを着ているじゃないか」
「あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ」
「そうかな」
「そうかなって、君そう感じないか」
「別に感じない。しかし奇麗《きれい》は奇麗だ」
「ただ奇麗だけじゃ可哀想《かわいそう》だ。君はこれから作家になるんだろう」
「そうさ」
「それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ」
「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」
「ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢《あ》ったものだから、もう一遍あるこうじゃないか」
「あるくのは、真平《まっぴら》だ。これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午食《ひるめし》を食い損《そく》なう」
「その午食を奢《おご》ろうじゃないか」
「うん、また今度にしよう」
「なぜ? いやかい」
「厭《いや》じゃない――厭じゃないが、始終|御馳走《ごちそう》にばかりなるから」
「ハハハ遠慮か。まあ来たまえ」と青年は否応《いやおう》なしに高柳君を公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺望《ちょうぼう》のいい二階へ陣を取る。
 注文の来る間、高柳君は蒼《あお》い顔へ両手で突《つ》っかい棒《ぼう》をして、さもつかれたと云う風に往来を見ている。青年は独《ひと》りで「ふんだいぶ広いな」「なかなか繁昌《はんじょう》すると見える」「なんだ、妙な所へ姿見の広告などを出して」などと半分口のうちで云うかと思ったら、やがて洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へ手を入れて「や、しまった。煙草《たばこ》を買ってくるのを忘れた」と大きな声を出した。
「煙草なら、ここにあるよ」と高柳君は「敷島」の袋を白い卓布《たくふ》の上へ抛《ほう》り出す。
 ところへ下女が御誂《おあつらえ》を持ってくる。煙草に火を点《つ》ける間《ま》はなかった。
「これは樽麦酒《たるビール》だね。おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙《あ》げようじゃないか」と青年は琥珀色《こはくいろ》の底から湧《わ》き上がる泡《あわ》をぐいと飲む。
「何の祝杯を挙げるのだい」と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。
「卒業祝いさ」
「今頃卒業祝いか」と高柳君は手のついた洋盃《コップ》を下へおろしてしまった。
「卒業は生涯《しょうがい》にたった一度しかないんだから、いつまで祝ってもいいさ」
「たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ」
「僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え? 鮭《さけ》か。ここん所《とこ》へ君、このオレンジの露をかけて見たまえ」と青年は人指指《ひとさしゆび》と親指の間からちゅうと黄色い汁を鮭の衣《ころも》の上へ落す。庭の面《おもて》にはらはらと降る時雨《しぐれ》のごとく、すぐ油の中へ吸い込まれてしまった。
「なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った」
 姿見の札幌麦酒《さっぽろビール》の広告の本《もと》に、大きくなって構えていた二人の男が、この時急に大きな破《わ》れるような声を出して笑い始めた。高柳君はオレンジをつまんだまま、厭な顔をして二人を見る。二人はいっこう構わない。
「いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ」
「エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え? ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ」
 土鍋《どなべ》の底のような赭《あか》い顔が広告の姿見に写って崩《くず》れたり、かたまったり、伸びたり縮んだり、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に動揺している。高柳君は一種異様な厭な眼つきを転じて、相手の青年を見た。
「商人だよ」と青年が小声に云う。
「実業家かな」と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞《しぼ》るのをやめてしまった。
 土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。
「おい中野君」
「むむ?」と青年は鳥の肉を口いっぱい頬張《ほおば》っている。
「あの連中《れんじゅう》は世の中を何と思ってるだろう」
「何とも思うものかね。ただああやって暮らしているのさ」
「羨《うら》やましいな。どうかして――どうもいかんな」
「あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ」
「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命《ほんめい》に疲れちゃ、少しも卒業のありがた味はない」
「そうかなあ、僕なんざ嬉《うれ》しくってたまらないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない」
「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束《おぼつか》ないから厭《いや》になってしまうのさ」
「なぜ? 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大《おおい》にやるさ。僕もやる気だ、いっしょにやろう。大に西洋料理でも食って――そらビステキが来た。これでおしまいだよ。君ビステキの生焼《なまやき》は消化がいいって云うぜ。こいつはどうかな」と中野君は洋刀《ナイフ》を揮《ふる》って厚切《あつぎ》りの一片《いっぺん》を中央《まんなか》から切断した。
「なあるほど、赤い。赤いよ君、見たまえ。血が出るよ」
 高柳君は何にも答えずにむしゃむしゃ赤いビステキを食い始めた。いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった。
 人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把《ちゅうとはんぱ》な慰藉《いしゃ》を与えらるるのは快《こころ》よくないものだ。わが不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞《おせじ》に気の毒がるのか分らない。高柳君はビステキの赤さ加減を眺《なが》めながら、相手はなぜこう感情が粗大《そだい》だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先《やさき》へ持って来て、ざああと水を懸《か》けるのが中野君の例である。不親切な人、冷淡な人ならば始めからそれ相応の用意をしてかかるから、いくら冷たくても驚ろく気遣《きづかい》はない。中野君がかような人であったなら、出鼻をはたかれてもさほどに口惜《くや》しくはなかったろう。しかし高柳君の眼に映ずる中野輝一《なかのきいち》は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁《わきま》えた秀才である。この秀才が折々この癖を出すのは解《かい》しにくい。
 彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。
 高柳君は口数をきかぬ、人交《ひとまじわ》りをせぬ、厭世家《えんせいか》の皮肉屋と云われた男である。中野君は鷹揚《おうよう》な、円満な、趣味に富んだ秀才である。この両人《ふたり》が卒然と交《まじわり》を訂《てい》してから、傍目《はため》にも不審と思われるくらい昵懇《じっこん》な間柄《あいだがら》となった。運命は大島《おおしま》の表と秩父《ちちぶ》の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人《ひとり》あって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友《ほうゆう》をもって中野君を目《もく》してはおらぬ。その中野君がわが不平を残りなく聞いてくれぬのは残念である。途中で夕立に逢って思う所へ行かずに引き返したようなものである。残りなく聞いてくれぬ上に、呑気《のんき》な慰藉《いしゃ》をかぶせられるのはなおさら残念だ。膿《うみ》を出してくれと頼んだ腫物《しゅもつ》を、いい加減の真綿《まわた》で、撫《な》で廻わされたってむず痒《がゆ》いばかりである。
 しかしこう思うのは高柳君の無理である。御雛様《おひなさま》に芸者の立《た》て引《ひ》きがないと云って攻撃するのは御雛様の恋を解《かい》せぬものの言草《いいぐさ》である。中野君は富裕《ふゆう》な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵《こたつ》へあたって、椽側《えんがわ》の硝子戸越《ガラスどごし》に眺《なが》めたばかりである。友禅《ゆうぜん》の模様はわかる、金屏《きんびょう》の冴《さ》えも解せる、銀燭《ぎんしょく》の耀《かがや》きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢《ぼっきょうかん》では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁《し》みてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束《おぼつか》なき針の目を忍んで繋《つな》ぐ、細い糸の御蔭《おかげ》である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河《さんが》が横《よこた》わっている。歯を病《や》んだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳《か》けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。
「君などは悲観する必要がないから結構だ」と、ビステキを半分で断念した高柳君は敷島をふかしながら、相手の顔を眺めた。相手は口をもがもがさせながら、右の手を首と共に左右に振ったのは、高柳君に同意を表しないのと見える。
「僕が悲観する必要がない? 悲観する必要がないとすると、つまりおめでたい人間と云う意味になるね」
 高柳君は覚えず、薄い唇《くちびる》を動かしかけたが、微《かす》かな漣《さざなみ》は頬《ほお》まで広がらぬ先に消えた。相手はなお言葉をつづける。
「僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろしたように云う。
「書物の上――書物の上では無論だが、実際だって、これでなかなか苦痛もあり煩悶《はんもん》もあるんだよ」
「だって、生活には困らないし、時間は充分あるし、勉強はしたいだけ出来るし、述作は思う通りにやれるし。僕に較《くら》べると君は実に幸福だ」と高柳君今度はさも羨《うらや》ましそうに嘆息する。
「ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。これでもいろいろ心配があって、いやになるのだよ」と中野君は強《し》いて心配の所有権を主張している。
「そうかなあ」と相手は、なかなか信じない。
「そう君まで茶かしちゃ、いよいよつまらなくなる。実は今日あたり、君の所へでも出掛けて、大《おおい》に同情してもらおうかと思っていたところさ」
「訳《わけ》をきかせなくっちゃ同情も出来ないね」
「訳はだんだん話すよ。あんまり、くさくさするから、こうやって散歩に来たくらいなものさ。ちっとは察しるがいい」
 高柳君は今度は公然とにやにやと笑った。ちっとは察しるつもりでも、察しようがないのである。
「そうして、君はまたなんで今頃公園なんか散歩しているんだね」と中野君は正面から高柳君の顔を見たが、
「や、君の顔は妙だ。日の射《さ》している右側の方は大変血色がいいが、影になってる方は非常に色沢《いろつや》が悪い。奇妙だな。鼻を境に矛盾《むじゅん》が睨《にら》めこをしている。悲劇と喜劇の仮面《めん》を半々につぎ合せたようだ」と息もつがず、述べ立てた。
 この無心の評を聞いた、高柳君は心の秘密を顔の上で読まれたように、はっと思うと、右の手で額の方から顋《あご》のあたりまで、ぐるりと撫《な》で廻わした。こうして顔の上の矛盾をかき混《ま》ぜるつもりなのかも知れない。
「いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇《ひま》はない。今日は新橋の先まで遺失品を探《さ》がしに行ってその帰りがけにちょっとついでだから、ここで休んで行こうと思って来たのさ」と顔を攪《か》き廻した手を顎《あご》の下へかって依然として浮かぬ様子をする。悲劇の面《めん》と喜劇の面をまぜ返えしたから通例の顔になるはずであるのに、妙に濁ったものが出来上ってしまった。
「遺失品て、何を落したんだい」
「昨日《きのう》電車の中で草稿《そうこう》を失って――」
「草稿? そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌へ出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾々《われわれ》に取って、命より大切なものだからね」
「なに、そんな大切な草稿でも書ける暇があるようだといいんだけれども――駄目だ」と自分を軽蔑《けいべつ》したような口調《くちょう》で云う。
「じゃ何の草稿だい」
「地理教授法の訳《やく》だ。あしたまでに届けるはずにしてあるのだから、今なくなっちゃ原稿料も貰えず、またやり直さなくっちゃならず、実に厭《いや》になっちまう」
「それで、探《さ》がしに行っても出て来《こ》ないのかい」
「来ない」
「どうしたんだろう」
「おおかた車掌が、うちへ持って行って、はたき[#「はたき」に傍点]でも拵《こしら》えたんだろう」
「まさか、しかし出なくっちゃ困るね」
「困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭《いや》な奴《やつ》だ事って――実に不親切で、形式的で――まるで版行《はんこう》におしたような事をぺらぺらと一通り述べたが以上、何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。あいつは廿世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違《ちがい》ない」
「ひどく癪《しゃく》に障《さわ》ったものだね。しかし世の中はその遺失品係りのようなのばかりじゃないからいいじゃないか」
「もう少し人間らしいのがいるかい」
「皮肉な事を云う」
「なに世の中が皮肉なのさ。今の世のなかは冷酷の競進会《きょうしんかい》見たようなものだ」と云いながら呑みかけの「敷島」を二階の欄干《てすり》から、下へ抛《な》げる途端《とたん》に、ありがとうと云う声がして、ぬっと門口《かどぐち》を出た二人連《ふたりづれ》の中折帽の上へ、うまい具合に燃殻《もえがら》が乗っかった。男は帽子から煙を吐いて得意になって行く。
「おい、ひどい事をするぜ」と中野君が云う。
「なに過《あやま》ちだ。――ありゃ、さっきの実業家だ。構うもんか抛《ほう》って置け」
「なるほどさっきの男だ。何で今までぐずぐずしていたんだろう。下で球《たま》でも突いていたのか知らん」
「どうせ遺失品係りの同類だから何でもするだろう」
「そら気がついた――帽子を取ってはたいている」
「ハハハハ滑稽《こっけい》だ」と高柳君は愉快そうに笑った。
「随分人が悪いなあ」と中野君が云う。
「なるほど善くないね。偶然とは申しながら、あんな事で仇《かたき》を打つのは下等だ。こんな真似をして嬉しがるようでは文学士の価値《ねうち》もめちゃめちゃだ」と高柳君は瞬時にしてまた元《もと》の浮かぬ顔にかえる。
「そうさ」と中野君は非難するような賛成するような返事をする。
「しかし文学士は名前だけで、その実は筆耕《ひっこう》だからな。文学士にもなって、地理教授法の翻訳の下働《したばたら》きをやってるようじゃ、心細い訳《わけ》だ。これでも僕が卒業したら、卒業したらって待っててくれた親もあるんだからな。考えると気の毒なものだ。この様子じゃいつまで待っててくれたって仕方がない」
「まだ卒業したばかりだから、そう急に有名にはなれないさ。そのうち立派な作物《さくぶつ》を出して、大《おおい》に本領を発揮する時に天下は我々のものとなるんだよ」
「いつの事やら」
「そう急《せ》いたって、いけない。追々新陳代謝してくるんだから、何でも気を永くして尻を据《す》えてかからなくっちゃ、駄目だ。なに、世間じゃ追々我々の真価を認めて来るんだからね。僕なんぞでも、こうやって始終《しじゅう》書いていると少しは人の口に乗るからね」
「君はいいさ。自分の好きな事を書く余裕があるんだから。僕なんか書きたい事はいくらでもあるんだけれども落ちついて述作なぞをする暇はとてもない。実に残念でたまらない。保護者でもあって、気楽に勉強が出来ると名作も出して見せるがな。せめて、何でもいいから、月々きまって六十円ばかり取れる口があるといいのだけれども、卒業前から自活はしていたのだが、卒業してもやっぱりこんなに困難するだろうとは思わなかった」
「そう困難じゃ仕方がない。僕のうちの財産が僕の自由になると、保護者になってやるんだがな」
「どうか願います。――実に厭《いや》になってしまう。君、今考えると田舎の中学の教師の口だって、容易にあるもんじゃないな」
「そうだろうな」
「僕の友人の哲学科を出たものなんか、卒業してから三年になるが、まだ遊《あす》んでるぜ」
「そうかな」
「それを考えると、子供の時なんか、訳もわからずに悪い事をしたもんだね。もっとも今とその頃とは時勢が違うから、教師の口も今ほど払底《ふってい》でなかったかも知れないが」
「何をしたんだい」
「僕の国の中学校に白井道也《しらいどうや》と云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜《かま》の銘《めい》にありそうじゃないか」
「道也《どうや》と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良《い》い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪るい人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪るい奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動《せんどう》されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜《よ》る十五六人で隊を組んで道也先生の家《うち》の前へ行ってワーって吶喊《とっかん》して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似《まね》をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動《せんどう》した教師ばかりだろう。何でも生意気《なまいき》だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想《かわいそう》に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間|活計《かっけい》に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大《おおい》に謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊《たっと》いものである。この理窟《りくつ》がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変《あいかわらず》教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」
「時にだいぶ長話しをした。どうだ君。これから品川の妙花園《みょうかえん》まで行かないか」
「何しに」
「花を見にさ」
「これから帰って地理教授法を訳さなくっちゃならない」
「一日《いちんち》ぐらい遊んだってよかろう。ああ云う美くしい所へ行くと、好い心持ちになって、翻訳もはかが行くぜ」
「そうかな。君は遊びに行くのかい」
「遊《あそび》かたがたさ。あすこへ行って、ちょっと写生して来て、材料にしようと思ってるんだがね」
「何の材料に」
「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園《はなぞの》のなかに立って、小さな赤い花を余念《よねん》なく見詰《みつ》めていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね」
「空想小説かい」
「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ」
「妙花園なんざ、そんな参考にゃならないよ。それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画《え》でも見る方がいい。ああ、僕も書きたい事があるんだがな。どうしても時がない」
「君は全体自然がきらいだから、いけない」
「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗《きれい》でなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体《からだ》を切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気《のんき》なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一言《いちごん》もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う」
「しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙花園《みょうかえん》に行く気はないかい」
「妙花園へ行くひまがあれば一|頁《ページ》でも僕の主張をかくがなあ。何だか考えると身体がむずむずするようだ。実際こんなに呑気《のんき》にして、生焼《なまやき》のビステッキなどを食っちゃいられないんだ」
「ハハハハまたあせる。いいじゃないか、さっきの商人見たような連中《れんじゅう》もいるんだから」
「あんなのがいるから、こっちはなお仕事がしたくなる。せめて、あの連中の十|分《ぶ》一の金と時があれば、書いて見せるがな」
「じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね」
「遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕はいまだに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない」
「ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事|無精《ぶしょう》だよ」
「無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。この夏服だって、まだ一文も払っていやしない」
「そうなのか」と中野君は気の毒な顔をした。
 午飯《ひるめし》の客は皆去り尽して、二人が椅子《いす》を離れた頃はところどころの卓布《たくふ》の上に麺麭屑《パンくず》が淋しく散らばっていた。公園の中は最前よりも一層|賑《にぎや》かである。ロハ台は依然として、どこの何某《なにがし》か知らぬ男と知らぬ女で占領されている。秋の日は赫《かっ》として夏服の背中を通す。

0 件のコメント: